防災・減災への指針 一人一話

2013年12月25日
訓練と実際の相違 ―教員の訓練の必要性―
多賀城市立東豊中学校 教諭
村山 裕治さん
多賀城市立東豊中学校 教諭
木村 兼明さん
多賀城市立東豊中学校 事務員
伊藤 順子さん

学校の訓練は、生徒のための訓練だけでなく、教員のための訓練でもある。

(聞き手)
 発災前、どのような震災への対策を行っていましたか。

(村山様)
 学校では、普段自分が管轄する教室なども含めて、重いものを上の方に置かないようにしていました。
それというのも、学生の時に宮城県沖地震を経験しましたが、自分の部屋では、地震により重いものが散乱していたからです。
また、職場の中では靴を履いているので大丈夫なのですが、自分の部屋など、どこにでも、靴を置いておくようにしています。
外に逃げやすいようにとの対処ですが、宮城県沖地震からの教訓として生まれた意識だと思います。
それから、地震が来たら必ず窓を開けるようにしています。
生徒にも、必ず、窓と、出来れば大きな扉を開けておくと移動しやすいと話をしています。

(聞き手)
 学校避難訓練は、どのような形で行われていたのでしょうか。

(村山様)
 年内行事の一つとして、いつ避難訓練があるという認識では足りないと思います。
当時の職場の上司に常々言われていた事ですが、学校で行う避難訓練は「生徒の訓練だけでなく、教員訓練でもある」という意識をしっかり持つことが大切なのではないでしょうか。教員訓練でもあるので、意識を高く持った方が良いという事を、当時の校長先生によく言われていました。
ですから、それを頭の中に入れて、生徒のためというよりも、自分が教師としてどういう動きをするかを意識して訓練に参加していました。

授業における防災教育の実践

(聞き手)
 震災直後の行動や出来事で、印象に残っていることは何ですか。

(木村様)
 自分で意識していなかったのですが、結果的に震災の時に役立った出来事が二つあります。
一つは、2年生の授業で発電機と懐中電灯のついたラジオを製作していた事です。
作った後、生徒に持ち帰らせたのですが、どういう場面で役に立つのかの話になり、震災などで電気が使えない時になるかもしれないから、大事に取っておきなさいと言っていたのです。
その後に、震災が起きて、その話が現実になってしまったので、少々ショックでしたが、授業で教えた事が、実際の場面で活かされたのだと思いました。
 もう一つは、その年は社会科を担当していましたが、ちょうど国土の防災という単元があったのです。
多賀城市の水害ハザードマップがインターネット上にありましたので、授業に使おうと思い、それを配った事がありました。
それで「過去にこんな水害があったから気を付けるように」と話をしました。
これがまた震災の津波被害として現実に出てきてしまいました。
本当に震災が起こって、被害を受けたことがショックではありましたが、やはりこうした授業での実践を通して、知識を積み重ねるという事はとても大事なのだと痛感しました。

(伊藤様)
 自宅では、枕元に懐中電灯を用意したり、物置に水や持ち出し用品を置くなどの対策をしていました。
自宅は地震が来たら入れなくなるかもしれないので、物置に用意していました。
ですが、実際は、懐中電灯より携帯電話の明かりの方が役に立ったような気がします。
 学校は卒業式が近かったので、非常電源の代わりとして乾電池を多く買い込んでいました。
震災時は、それが、皆さんの携帯電話の充電に役立ちましたので、買っておいて良かったと思いました。
そんな事があったので、今でも乾電池が少なくなると買っておこうと意識します。

(聞き手)
学校備蓄品は用意していましたか。

(木村様)
 災害に備えての備蓄ではありませんが、災害時に役に立ったのは、私たちが普段、おやつなどに食べていたお菓子や、学校でたまたま購入していたペットボトルのミネラルウォーターでした。

(村山様)
 備蓄は特になかったと思います。
学校の中では、授業で使っている乾電池や、技術室や理科室にあった物品が役に立ちました。
電気が使えなくなったので、理科室にあった実験用ろうそくを使った事がありました。

発災直後の対応

(聞き手)
 発災直後の対応についてお聞かせください。

(村山様)
 発災時は体育館にいました。
体育館で卒業式が行われた後だったのです。
片付けは2日後にする予定でしたが、絨毯は丸めておいた方が汚れず、片付けも楽になると思って、もう一人の教員と絨毯を巻いている最中に地震が来ました。
体育館の照明灯が音を立てて揺れ、揺れも長く強くなってきたので、照明灯が落ちると思い、体育館の外に出ました。体育館は、鉄筋造りの建物ですが、ここまで揺れるのかと感じました。少し揺れが収まったので、プール脇に行ってみたところ、水が文字通り波打っていました。

(聞き手)
 かなり甚大な揺れでしたが、その後、津波が来ると予想出来ましたか。

(村山様)
 予感はありました。恐らく、体育館は避難所になるだろうとも予想出来ました。卒業式の後片付けをどうしようか最初は悩みましたが、椅子などは結局使う事になるので、そのままにしておきました。
扉が開かないと困ると思いましたが、開いたので大丈夫だとわかりました。
体操用マットなども出す事になるだろうと考えたので、体育倉庫のドアも開けられる事を確認し、その後に職員室に戻ってきました。
ですが、避難所になるだろうと予測出来ても、市の指示でどこに避難させることになるかはわかりませんでした。

(聞き手)
木村様は、発災直後はどちらにいらっしゃいましたか。

(木村様)
私は職員室にいました。

(聞き手)
揺れはどのように感じられましたか。

(木村様)
 最初に警報が鳴りました。カウントダウンが始まり、徐々に揺れも強くなってきました。もう少しで来ると思った矢先、地鳴りと共に突き上げられるような揺れが襲い掛かりました。
後から調べてみたところ、あの時は2回、地震があったようです。
職員室の中の物はほぼ全てひっくり返り、棚も倒れて、暖房も電気も使えなくなりました。これはただごとではないと思って、すぐに動かないといけないと考えました。

(聞き手)
津波が発生する予感はしましたか。

(木村様)
 わかりませんでした。ですが、誰かがラジオか携帯電話で調べたところ、大津波警報が来るという事がわかりましたので、それを誰かが避難しながら叫んでいました。

(聞き手)
 木村様は過去に、自然災害に遭われた経験はございますか。

(木村様)
 東日本大震災の前年に、チリ地震があった時に津波騒動があって、学校が避難所になるという事で、開設のために動いた事はありますが、それ以外で大きな災害を直接経験した事はありません。

(村山様)
 その時の経験訓練になっていたと私は感じました。
あの時は学校が休みだったのですが、男性教職員はほとんどが来ていたのです。
私は、前任校が離島の中学校だったので、自然災害に対する意識は高かったと思います。
災害に対する意識は、これまでの勤務校や勤務地によっても違ってきます。

(聞き手)
伊藤様は発災直後にどこにいらっしゃいましたか。

(伊藤様)
 職員室前の廊下にいました。日直だったので、校内を巡視して回っていた時に揺れに遭いました。
本当に立っていられないほどの揺れは初めてで、これはまずいと思い、壁際にしゃがんでいました。
職員室から皆さんがどんどん出てきて、「これは普通の地震ではない、いったん収まったらとにかく学校の外に出ましょう」と話していました。
揺れが収まったら、その通りに急いで学校の外に出ました。特に外にでる時に物が落ちてきたような記憶はありません。

(聞き手)
津波が発生する予感は感じましたか。

(伊藤様)
 ありませんでした。
そもそも、多賀城市は海が近い場所という意識があまりありませんでした。
確かに多賀城市は海と繋がっている地域がありますが、この辺りまで津波が来るとは思っていませんでした。

指示系統が決まらない中での混乱

(聞き手)
発災当時の対応で、上手くいったことや上手くいかなかったことはありましたか。

(村山様)
 上手くいった事より、上手くいかなかった事の方が多い気がします。学校が避難所になるとして、避難者の方にどの部屋に入っていただくのか、指示は校長や教頭がするのか、それとも教育委員会か、はたまた市の災害対策本部なのか。その辺りで二転三転した気がします。
 最初、だんだんと人が集まって来たので、体育館に入っていただこうと思いましたが、夕方で暗くなり、余震もまだ続いていたからだと思いますが、ドアが開けてあっても、皆さん、入られませんでした。
それでは、どこに入っていただくのかという話になり、特別教室なら構わないという事になりました。
しかし、その事も、誰が決めた事なのか、今振り返ると、よく分かりません。
とにかく寒さを防いだ方が良いと、一度、特別教室棟に避難者を入れました。それでも余震のせいで、なかなか外の人数が減りませんでした。車も後から後から来ていましたが、何をどうすればいいのか、指示系統がなかったのが最も辛い事でした。
 また、私たちは上履きを履いていましたが、避難して来た方たちは着の身着のままだったと思うので、裸足で入っても冷たいだろうと、外履きのまま入ってもらうことになりました。
その後、何分経ってからかはわかりませんが、今度は体育館に入ってもらいました。
そこでマットを引っ張り出してきて、なるべく寒さを防げるようにした記憶があります。
その頃から雪が降り始めたので、外にいる方のためにテントか何かを建てる事になりました。
地震から1時間ほど経っていたのですが、津波が来るという事を聞いたためか、さらに人が集まって来ました。
その時点でも、指示系統がはっきりせず、電話も繋がらない状態でした。
 職員室は2階にありますが、当時はもう机の引き出しが飛び出て、壁際に置いてあったロッカーも崩れてと酷い有様でした。
職員室に入ることはできず、緊急時の指示をどこから発信するか悩みました。最終的には広さの観点から保健室を当座の拠点することにしましたが、指示がうまく伝わらなかった事を覚えています。

(聞き手)
 住民の方は当日、最大で何名くらい集まって来られたのでしょうか。

(木村様)
 おそらく、400人か500人を超えていました。
ごった返している状況の中、村山さんが言ったように指示系統が無いため、校舎の周りを右往左往しているだけでした。
市の職員の方たちが来た時点で、ようやく私たち教員も落ち着けました。
結局、私たちは避難誘導したり、整理したりといった対応をまったく出来ませんでした。

(聞き手)
市職員が来るまで、だいたいどれくらい掛かりましたか。

(木村様)
かなり遅かったです。午後4時頃に来たと思いますので、1~2時間ほどでしょうか。

(聞き手)
 避難して来た住民の方が増えてきた中で、パニックになっている方などは見受けられましたか。

(木村様)
 いえ、そういった人はいませんでした。
避難された方たちは割と落ち着いていました。
ただ、ここに避難して来たものの、家族とはぐれてしまったというような方がいて、そこで少し困った事はありました。

(聞き手)
 発災当時、伊藤様が大変だったと感じたことは何ですか。

(伊藤様)
 やはり木村が言ったように、ずっと右往左往してしまい、どこにいていいのかもわかりませんでした。
それから、多賀城東小学校子どもたちの中に、東豊中学校に避難しなさいと言われて来た子がいたらしいのです。その子は東豊中学校の校庭に行くように言われたそうなのですが、次に校庭は低いから、それより高い所に行くようにと言われたそうです。指示混乱して大変だっただろうと思います。
 その時に印象に残っているのは、小さな女の子を連れた妊婦さんが来た事です。
女の子は揺れて怖いのでお母さんに抱っこをせがんでいましたが、お母さんは妊婦さんなので抱っこが出来ません。
そこに高校生くらいのお姉さんたちが来て、その子をあやしてくれました。その出来事が心温まる思い出として印象に残っています。
他には鳥かごを持ったまま避難して来た方など、断片的な事だけしか覚えていません。

(聞き手)
 中学校の生徒さんが手伝ってくれたというようなお話はありますか。

(伊藤様)
 その時はみんな恐らくパニックに陥っていたと思うので、何かをするという発想が無かったと思います。ですが、しばらくして落ち着いたら、自分の学校なので手伝いを申し出てくれる生徒もいました。

子どもたちの癒しを考えたアフターケアの重要性

(聞き手)
 復旧・復興に向けて、お考えがあれば教えてください。

(村山様)
それぞれに進んでいるでしょうから、取り立ててはありません。あるとするならば、まだまだ、防災・減災について取り組んでいかないといけないでしょうから、その事だけはしっかり考えてもらえれば良いと思います。
これだけ時間が経っているので、子どもたちのアフターケアを考えた時に、最初は復興の動きが遅いのではないかと思いました。
海沿いにある県の公園である仙台港多賀城地区緩衝緑地は、いつまで経っても復旧しませんでした。
野球場、陸上競技場、テニスコートなどが入っている公園で、私たちも学区の中に入っているので、よく使わせてもらっていました。
それがいつまで経っても再開せず、震災後、1年後くらいに行った時にも、まだ、打ち上げられた船や車がありました。
今は完全に無くなりましたが、予算の問題もあったでしょうから、当時はしょうがないと感じていました。
ですが、子どもたちがのびのびと運動できる場所の整備をこれからもっと加速させてもらえれば、癒しの場所に出来るのではないでしょうか。

(聞き手)
 憩いの場をもっと作っていく必要があるという事でしょうか。

(村山様)
 ニュースなどでもよく言われていますが、最初に必要なもの、何日か経った時に必要なもの、それから更に数日経って必要になるものは全て違います。
その点を考えた場合、今はメンタル面の課題が残っているので、特に小さい子どもたちがのびのびできる場所を整備して、提供していく事が最後に残っているのではないかと思っています。
子どもたちだけでなく、仮設住宅に入っている方を含めて、皆が集える場があれば良いのではないでしょうか。

(聞き手)
 ありがとうございます。
木村様は、多賀城市の今後の復旧復興に向けての思いやアドバイスはございますか。

(木村様)
 多賀城市のホームページなどを見ますが、復旧復興の状況が1つ1つ丁寧に示されているので、多賀城市が努力しておられるという事は常々感じています。
おかげ様で、東豊中学校も被害を受けた部分を直して頂きましたので、感謝している部分はあります。
ですが、当然、進んでいない部分もあります。
現実的にそれらを考えた場合、もう10年、20年の単位で考えていくしかないと思っています。
多賀城市としての考えもあるでしょうし、県や国の考え方もあるでしょうから、それらに従って問題点を1つ1つ解決していくしかありません。
私がこういう事を言っていいのかわかりませんが、性急な復興よりは、ゆったり構えて長い目で見ていければ良いのではないかという考えは常に持っています。
もちろん、仮設住宅に住んでおられる方々にしてみれば、早い復興を望まれている部分もあるのでしょう。
ですが、優先順位もあるでしょうから、ゆっくり考えていくしかないのではないかと思います。

(伊藤様)
 仮設住宅に入っている生徒も知人もいますが、だからといって元の生活レベルに一気に戻すのはなかなか難しい事です。
多賀城市は住めない場所というのは特にないようですが、代わりに、生活を再建させるお金の問題が一番大きいのではないでしょうか。
かといって、支援状況によっては、国の財政がパンクするのではと思うこともあります。
復旧復興は個人の問題ではなくなってきているので、多賀城市全員、あるいは宮城県全員が一緒のレベルに戻していくには時間が掛かるでしょう。
復旧復興に向けての考えといっても、あまり丁寧に皆さんの意見を聞いていると遅くなってしまいます。
だからといって、急いでも、今度は、そのスピードに来られない方も沢山出てくるでしょう。
私はそこで考えが止まってしまいます。

(聞き手)
 先ほど、村山様から憩いの場というお話が出ましたが、その点について、どうお思いでしょうか。

(伊藤様)
 東北楽天ゴールデンイーグルスの優勝で思いましたが、一瞬でも今のつらい状況を忘れられる時間があると良いと思いました。
その点でいえば、体を思いっきり動かせる場所があったり、図書館に行って本を読みふける事が出来たり、音楽を奏でる事が出来る場所があったりすると、子どもたちには良い影響を与えることができると思います。一時でも、被災している境遇を忘れて、そういった事に打ち込める場所があると良いと思います。

(聞き手)
 後世に伝えたい事はございますか。

(村山様)
 とにかく、震災の事を忘れないでほしいという思いがあります。
 大げさな話や行動によって、逆に津波警報の信用性が薄れ、行動できずに亡くなった方もいるので、その辺りの教育の仕方や家庭内での話し方を考えることが必要です。
また、家族で離ればなれになった時の集合場所だけは、常に決めていてもらえれば一番の対策になります。
震災時、通信網がほぼ完全に寸断されましたが、もしもの時の集合場所を決めていたからうまく助かったというご家族もいるという話を聞きました。
当時、電気は、国道45号から西側は比較的早期に明かりが戻りましたが、東豊中学校は逆側でしたので、「ああ、向こうは電気が点いたのに、こっちはまだ電気は来ないのか」と思った事を覚えています。
電気がないと通信が来ないので、どこに行くか、家族や職場内できちんと決めてあれば一番良い事です。
そういった啓蒙が出来れば、また違ってくるのかもしれません。
震災でそういう事があったという事を風化させるのだけは避けねばなりません。
また、これから生まれてくる子どもたちにもきちんと伝えていく必要がありますが、その具体的な方法まではまだ考えられません。

教員側の訓練の必要性

(聞き手)
 震災から得た教訓はありますか。

(村山様)
 学校の中にいて教訓になったのは、指示系統をしっかり決めるという事です。
学校は避難者を受け入れる側なので、その時にどうするかが出来ていなければいけません。
今は防災主任がおりますので、非常時の動きに関する意見は沢山出てきています。
特に思うのは、生徒は当然ですが、教員訓練が必要になると感じました。
平成23年4月7日に大きな余震がありましたが、あの時は、自宅に戻っていた先生方も戻って来てくれて、それぞれ、上手に散って、手薄になっている箇所に行って対応していました。
あれはやはり、一度経験しているからこそ、上手く対応できたのだと思いました。
ですが、職場が変わったら、動き方もまた違ってくるでしょう。
マニュアルとまではいきませんが、その土地と建物の形状に合わせた動き方を、教員訓練しなければいけないと感じました。

とにかく逃げること、そして、記録を取ることが重要

(聞き手)
 今回の震災での思いをお聞かせください。

(木村様)
 自分の身は自分で守るしかないという気がしました。
東日本大震災では、津波被害が、一番大きかったです。
私たちは地震に対する備えはしていました。
実際に見てみればわかるように、耐震化を施していた施設などは、さほど大きな被害を受けていませんし、この校舎自体も、きちんと耐震化をしていました。
地震が起こった際の避難訓練などもきちんと行っていましたが、今回は明らかに被害の大半が津波によるものなので、そこは正直な話、私たちも不意を突かれてしまった部分があります。
「津波が来ました、でもマニュアルがありません、じゃあどうしますか」という状況になったら、「逃げる」しかありません。
高い場所まで、自分一人ででも逃げる事です。とにかく逃げて、いったんは、自分の命を守る事が最優先になります。
 マニュアルがある事自体はもちろん大事ですが、実際に災害が起こった時にそのマニュアルがどれだけ機能するのかという事を考えたら、私は自信が持てません。
そうなった時には、その場の対応で、すぐに動くしかないと思っています。
色々と考え込んでいては、その間に被害を受ける可能性が出てきます。
学校の保護者や生徒の中にも、間一髪で助かったような人がたくさんいますが、その人たちにどう行動したのか聞くと、結局は皆、とにかく逃げたと言うのです。
すぐに逃げた、急いで高い建物に上がったなどというように、その場のとっさの行動で助かったという話が多いのです。
ですから、その場ですぐに対応出来るようにする事と、自分の身を自分で守る事が一番の基本になるでしょう。
 それから、何でも構わないので記録を取っておく事が大事です。
今は携帯電話やデジカメもありますので、その場で見聞きした事や対応した事を画像などで残しておくだけで違ってくると思います。
私は地震が来てすぐに、デジカメを準備しました。
避難誘導などの仕事もありましたが、その時に何があったかを出来るだけカメラに収めておこうと思ったのです。
悲惨な状況などはさすがに撮影出来ませんが、津波が来て車が押し流された後の現場の状況や、避難所の様子なども撮影出来る範囲で撮りました。
個人レベルでも行政レベルでも構わないので、そうして記録をしっかりと残しておき、後から見る事が出来るようにしておけば、今後に役立つのではないでしょうか。

(聞き手)
 関東大震災や明治の三陸津波などの様子で一番役に立っているのは、当時の子どもたちが書いた作文だそうです。作文を書かせるような事は難しいでしょうか。

(木村様)
 難しいでしょう。
言葉には出さなくても、疲れている生徒は沢山いますので、それは時間がもっと経ってからで良いのではないでしょうか。
ですが、私たち大人はある程度冷静になって語れる部分がありますので、語れる人たちだけでもいいですから、言いたい事を言って、提供出来る記録を提供して、それらをストックしておくだけでも違ってくるでしょう。
生徒から直接聞くのは、まだ厳しい時期です。

(伊藤様)
 学校としては、情報収集を怠らない事が大事になるでしょう。
当時、私は大津波警報が出ていたと早く知る事すら出来なかったのです。
皆さんが騒いでいるのを聞いて、それで初めて知りました。
警報が出ている事が分からず、命を落とした方もいる事でしょう。
そこで冷静に、地震があったらラジオをつけたり、周りを見たりして、地震があったら内陸に逃げてもらえれば良いのでしょう。
情報と行動はイコールの関係になるのでしょう。
避難を自力で判断出来るようにするのが大事な問題になると思います。
それから、障害をお持ちの方などがご近所にいるのであれば、そこに声を掛けるだけでも動きが違ってきます。

経験や見聞を財産とする事

(聞き手)
 今回の震災を通して、多賀城市に伝えたい事はございますか。

(村山様)
 取り立てて言う事はありません。
多賀城市は本当に一生懸命行動されていると感じています。
強いて言うなら、私の同級生に建築関係の仕事をしている人がいますが、「資材がない」、「人手が足りない」とよく言っているので、その問題があるのだと感じています。
 また、塩竈市や仙台市など、自治体による支援の違いなどがよくニュースで取り上げられますが、それは地域柄も含まれているのかもしれません。
この辺りは仙塩地区と呼ばれるほどに繋がりがあると思うので、連携を取る事が最良の手段になると思います。その点は行政の方で、よく頑張ってもらっていると感じています。

(木村様)
 私たちが経験した事や見聞きした事を、言葉がおかしいかもしれませんが、財産として残していく事が重要だと考えています。
先ほども言いましたように、完璧なマニュアルがあっても実際の災害の状況や規模によっては活かされない部分もあるでしょうから、その場の状況に応じて臨機応変に対応していかなければいけない部分が山ほどあります。
今後100年先、200年先には、関東方面でも同じような災害が起こるかもしれないという話も聞きますので、そうした部分で対応などに活かしていく事が出来れば良いのでしょう。
 個人的には、どうしてこんな災害を経験しないといけないのか理不尽に感じている部分もあります。
ですが、震災を経験した当事者として、何らかの形で語り継いでいかなければならない部分があります。その気持ちを常に持って、これからも生きていこうと思っています。

(伊藤様)
 東日本大震災という、歴史に残る大事件の生き証人になってしまったと今でも思っているので、これをどうにかして後世に伝えていければと思っています。